毎年5月の定例会のあと全員で「民生委員の父」といわれる笠井信一翁の墓参に行きます。私は、用事ができてしまい今日は参加できませんでした。
笠井信一翁は元治元年(1864年)6月19日富士郡蓼原村に生まれました。
翁の家は金物商を営み、東海道筋に面していて、家からは雄大な富士山を仰ぎ見ることができました。
●内務省で仕事を始める
翁は蓼原村の三省舎(現在の富士第一小学校)に学び、旧制静岡中学校を卒業、さらに東京第一高等学校を卒業して、東京帝国大学(現在の東京大学)英法科に入学。明治25年に卒業後、内務省に入り、人々の生活にかかわる仕事に夢中になって取り組みました。
そして、明治41年、翁は仕事ぶりを認められ、全国の知事の中で最も若くして、岩手県知事に任命されました。
●静岡県知事も務める
岩手県知事に在任中、農業や林業に力を入れ、また、教育基金育英資金制度をつくり人材の育成に努めました。こうした努力により苦しい県の財政事情を救ったのです。
そして、大正2年3月、生まれ故郷の静岡県知事に任命されました。
しかし、第一次世界大戦が起こり、各県の財政が苦しい中、翁が県知事となってくれることを待ち望んでいる県も多くありました。そのため、内務省は翁をやむなく、当時県財政が非常に苦しかった岡山県の知事に任命しました。
静岡県知事に任命されてわずか1年3か月後のことです。
●大正天皇からのご質問
岡山県知事になってからも、翁はこれまでの経験を生かし、官民一体となった取り組みを進め、世界大戦のさなかにあって苦しい経済状況を救うための努力を重ねました。
大正5年、宮中で行われた地方長官会議で、大正天皇から翁に質問がありました。
それは、「県内で生活に困っている人はどのくらいいて、その人々が身を立てるようにするにはどのようにしたらいいか」という内容でした。
岡山に帰った翁は、すぐに生活に困っている人々の調査をしました。すると、県民の約1割の人がとても生活に困っていることがわかり、翁は大変驚きました。また、生活が困る原因には体が不自由なことや、働くための仕事がないことなど、いろいろな理由があることがわかりました。翁は真剣に悩み、その人々を救うにはどうしたらいいのか考え続けました。
●済世顧問(さいせいこもん)制度をつくる
その結果、役所だけでなくそれぞれの町に住み、思いやりがあり、社会奉仕の心を持った人たちと協力して、生活に困っている人の手助けをすることが必要だと考えました。これが現在の民生児童委員制度のもとになる「済世顧問制度」です。
その後、翁は北海道庁長官や勅撰(ちょくせん)貴族院議員を務めるなど活躍しましたが、昭和4年に病気のため、66歳の生涯を閉じました。今ではその功績をたたえ、翁のことを「民生児童委員の父」と呼んでいます。
笠井信一翁とは(富士市ホームページより)
●富士郡蓼原村で生まれる笠井信一翁は元治元年(1864年)6月19日富士郡蓼原村に生まれました。
翁の家は金物商を営み、東海道筋に面していて、家からは雄大な富士山を仰ぎ見ることができました。
●内務省で仕事を始める
翁は蓼原村の三省舎(現在の富士第一小学校)に学び、旧制静岡中学校を卒業、さらに東京第一高等学校を卒業して、東京帝国大学(現在の東京大学)英法科に入学。明治25年に卒業後、内務省に入り、人々の生活にかかわる仕事に夢中になって取り組みました。
そして、明治41年、翁は仕事ぶりを認められ、全国の知事の中で最も若くして、岩手県知事に任命されました。
●静岡県知事も務める
岩手県知事に在任中、農業や林業に力を入れ、また、教育基金育英資金制度をつくり人材の育成に努めました。こうした努力により苦しい県の財政事情を救ったのです。
そして、大正2年3月、生まれ故郷の静岡県知事に任命されました。
しかし、第一次世界大戦が起こり、各県の財政が苦しい中、翁が県知事となってくれることを待ち望んでいる県も多くありました。そのため、内務省は翁をやむなく、当時県財政が非常に苦しかった岡山県の知事に任命しました。
静岡県知事に任命されてわずか1年3か月後のことです。
●大正天皇からのご質問
岡山県知事になってからも、翁はこれまでの経験を生かし、官民一体となった取り組みを進め、世界大戦のさなかにあって苦しい経済状況を救うための努力を重ねました。
大正5年、宮中で行われた地方長官会議で、大正天皇から翁に質問がありました。
それは、「県内で生活に困っている人はどのくらいいて、その人々が身を立てるようにするにはどのようにしたらいいか」という内容でした。
岡山に帰った翁は、すぐに生活に困っている人々の調査をしました。すると、県民の約1割の人がとても生活に困っていることがわかり、翁は大変驚きました。また、生活が困る原因には体が不自由なことや、働くための仕事がないことなど、いろいろな理由があることがわかりました。翁は真剣に悩み、その人々を救うにはどうしたらいいのか考え続けました。
●済世顧問(さいせいこもん)制度をつくる
その結果、役所だけでなくそれぞれの町に住み、思いやりがあり、社会奉仕の心を持った人たちと協力して、生活に困っている人の手助けをすることが必要だと考えました。これが現在の民生児童委員制度のもとになる「済世顧問制度」です。
その後、翁は北海道庁長官や勅撰(ちょくせん)貴族院議員を務めるなど活躍しましたが、昭和4年に病気のため、66歳の生涯を閉じました。今ではその功績をたたえ、翁のことを「民生児童委員の父」と呼んでいます。